尾崎翠の世界  

●鳥取フォーラム03報告集刊行!●

-全集未収録作品や親族の寄稿を収録した必読文献-


『尾崎翠フォーラム・in・
  鳥取2003 報告集』
 尾崎翠の文学的出発点を明らかにする、17歳当時の短文や和歌、紀行文、詩などをはじめ、全集未収録の新発掘作品を収めた『尾崎翠フォーラム・in・鳥取2003 報告集』が刊行されています。また、1979年発刊の創樹社版『尾崎翠全集』の月報で、身近な肉親の目で等身大の翠を印象深く書かれた、甥の小林喬樹さんが四半世紀ぶりに筆を執られ、113通にのぼる翠の手紙や葉書を再読した上で「伯母尾崎翠のこと」と題した回想を寄稿されています。今回の報告集は、研究者、愛読者に欠かせない必読文献です。
 全集未収録作品は、大阪の研究者、石原深予さんが調査、発掘したもので、2001年の「第1回尾崎翠フォーラム・in・鳥取」で発表され、これまでは生地の岩美町・岩井温泉の《ゆかむりギャラリー/尾崎翠資料館》の展示でしか読めないものでした。それを今回、2003年の報告集に収録したもので、これによって正式な文献として公にされたことになります。(なお、この新資料については、本HPの「鳥取フォーラムで全集未収録の新資料発表」でも紹介していますので、参照してください)
 生活を共にし、翠に愛された甥、小林喬樹さんによる回想は、思い入れ過剰になりがちな翠の実像を淡々と描き、全集の編者、稲垣真美氏(男)などが描く「生ける屍としての晩年」など噴飯モノであることがよく分かります。「創作活動をしていたことなど」おくびにも出さず、戦後の苦しい生活に追われながらも、三人の甥と姪を育て、ユーモアを楽しみながら暮らしたこと、「ものの考え方が科学的・合理的であり、人の考えないアイデアを思いつく人」だったこと、「世上の悪知恵などとも無縁の人で、カラクリ、策士などはひどく嫌い」だったこと、「少なくとも生活に気落ちしているとか、文学ができないことに落胆しているとかの気配は、私たち甥や姪には感じられ」なかったことなど、「サッパリしていて」「湿っぽさ」の全くない翠の人柄が伝わってきます。みどりその人を知る人が少なくなっている現在、実に貴重な証言です。
 また、フォーラムで行われた講演、狩野啓子・久留米大学の「翠探求の旅」、活動写真弁士・澤登翠さんの「尾崎翠が愛した映画」も収録されています。そうなのです。今回のフォーラムでは、翠が愛してやまなかった映画「チャップリンの消防夫」と「プラーグの大学生」を、澤登翠さんの活弁で上映し、大好評を博したのでした。澤登さんが翠について語るのも珍しいのですが、実は「第七官界彷徨」を読んで以来の尾崎翠ファンであるとか。「映画漫想」を読み解きながら、そこで語られている映画や女優、男優について具体的に照らし合わせ、どこに翠の独創があるか縦横に論じているのは、まさに活動弁士の独壇場です。こういう現代の専門家から見ても屹立している映画論を70年以上前に書いた尾崎翠は、まさに未来的な映画批評家でもあったと言えましょう。
 読み応えがあり、資料的価値の大きい03年の報告集ですが、お求めは下記にお申し込みください。

発 行:尾崎翠フォーラム実行委員会
頒 価:1、200円(送料別160円)
申込み先:〒680-0851 鳥取市大杙26 土井淑平気付
     尾崎翠フォーラム実行委員会
(E-mail):manager@osaki-midori.gr.jp
※ E-mailでも受付けます。
申込みを受けたら郵便払込用紙を添えて送ります。

尾崎翠フォーラムのHPもご覧下さい。
http://www.osaki-midori.gr.jp/



●「全集 現代文学の発見 第6巻『黒いユーモア』」復刊●

-尾崎翠を復権させた學藝書林の幻の全集、新装版で甦る-

 知る人ぞ知る幻の作家だった尾崎翠を、再び世に送り出した、60年代末の衝撃的な文学全集「現代文学の発見」。こちらもいまや「幻の全集」となりましたが、全16巻、別巻1が、版元の學藝書林から新装復刊されています。「第七官界彷徨」を収録した第6巻『黒いユーモア』も発行され、これまで図書館でもなかなか読めなかった記念碑的全集が身近に読めることになりました。
 70年前後のカルチャー・シーンに大きなインパクトを与えたアバンギャルドな文学全集でしたが、こうした熱気の中から尾崎翠の復権が果たされたことを思うと感慨深いものがあります。しかし、内田百けん、石川淳、富士正晴、武田泰淳、平林彪吾、織田作之助、坂口安吾などの収録作品を読むと、今だって新しいことに驚きます。尾崎翠の「第七官界彷徨」が全然古くならないことを考えると、文学の価値とはこういうものかも知れません。

『全集現代文学の発見』第6巻

 また、花田清輝の解説「白磁鳳首瓶(はくじほうしゅへい)」は、これを読むだけでも4千5百円(定価)を払う価値のある絶品のエッセイです。大笑いしながら、文章の向こうから尾崎翠のエッセンスが立ちのぼってくる、わたしたち尾崎翠ファンには手を合わせたくなるような花田の解説ぶりには、ほとほと感服以外ありません。
 余談、でもないのですが、月報にはもちろん当時の飯沢匡×中田耕治対談が収録されたうえ、これに新しく佐木隆三と浜野佐知監督のエッセイが書き下ろされています。ここで浜野監督は、「第七官界彷徨」映画化を妨害しようとした全集編者、稲垣真美氏(男)の実名を挙げて、こっぴどく批判しています。文学業界では異例の掟破りと思われますが、映画監督だから許されたことなのかどうか、ともかく珍事には間違いありません。このエッセイは、旦々舎の下記のURLでも読むことができますので、物見高い方はぜひご覧下さい。

http://www.h3.dion.ne.jp/~tantan-s/frmDetail.html
 
 
 
(株)學藝書林
〒104-0032 東京都中央区八丁堀2-3-5
Tel 03-3552-5906(営業)/03-3552-5904(編集)
Fax 03-3552-6086



●『尾崎翠と花田清輝』(北斗出版)刊行!●

-土井淑平さんの待望の新著-

 わたしたちの間近で大きな事件が相次いでいます。悲しい出来事としては、塚本靖 代さん、石原郁子さん、矢川澄子さんの死去があります。なかでも、映画『第七官界 彷徨・尾崎翠を探して』の製作発表の日から、このHPの制作に至るまで、研究者の 立場から常に同行してくれた塚本靖代さんを失ったことは、ただただ茫然とする他あ りません。この三人の方については、あらためて報告したいと思います。
 喜ばしい出来事としては、林あまりさんをメイン・ゲストに迎えた「第2回 尾崎 翠フォーラム・in・鳥取」の開催と、フォーラム実行委員会代表の土井淑平さんの新 著『尾崎翠と花田清輝-ユーモアの精神とパロディの論理』(北斗出版・2400円 +税)の刊行があります。また、機会あってモントリオール大学教授のリヴィア・モ ネさんと都内で出会えたことも、嬉しいことのひとつに数えられるかも知れません。 モネ教授は、言うまでもなく、翠研究に新しい地平を開いた論文「自動少女-尾崎翠 における映画と滑稽なるもの」(『國文學』00年3月号)の筆者です。
 土井さんの新著は、昨年の「第1回 尾崎翠フォーラム・in・鳥取」に向けて『ファ イ-人文学論集鳥取』特集号に寄稿され、わたしが「リヴィア・モネ教授の論文にも 比肩すべき大型評論」として紹介した「ユーモアの精神とパロディの論理-尾崎翠と 花田清輝を結ぶもの」をベースにしながらも「かねてからのモチーフを全面展開した ため、ほとんど原形をとどめぬ完全なる新著となった」(あとがきより)ものです。
 悲しみの連鎖もあれば、喜びの連鎖もあり、いや悲しみも喜びもランダムに連鎖し ていくのかも知れませんが、わたしたちは尾崎翠という主題をめぐって出会った、翠 なければ出会うことはなかった、そのことを念じ、噛みしめたいと思います。
 土井さんの新著についても、あらためて詳しく論じますが、光栄なことに浜野監督 とわたしが推薦の辞を寄せていますので、取りあえずここに拙文を掲載しておきます。
(2002.7.21 ヤマザキ)
「清輝を読むと快活になる。清輝経由で翠を読んだ。可笑しかった。翠の脚本を書き、 土井淑平に出会った。花田読みにしてエコロジストの彼が、笑って近代を超える清輝 と翠を読み解く。喜劇的精神とエコロジー、パロディと脱構築など、領域を自在に横 断して描かれた二つの肖像。同時代の誰にも理解されなかった精神の煌めきが、奇跡 のように交叉する。翠は清輝という批評家を得たが、清輝に批評家はなかった。この 自由闊達な知的怪物を見渡すには、今日までの時間的な距離と、朗らかなエコロジス ト淑平が必要だったのだ」
<目次>
序論 映画『第七官界彷徨-尾崎翠を探して』に寄せて/第一章 ミューズとケンタウロス-尾崎翠と花田 清輝の出会い/第二章 少女の彷徨と蘚(こけ)の恋愛-尾崎翠の世界/第三章 笑う男と鳥獣の戯れ-花 田清輝の世界/第四章 ユーモアの精神とパロディの論理-尾崎翠と花田清輝を結ぶもの
 
※この本、土井淑平(よしひら)著『尾崎翠と花田清輝』(北斗出版・2400円+税)は書店で注文するか、直接北斗出版(e-mail:hokutos@abelia.ocn.ne.jp)にお申し込みください。なお、オンライン書店bk1に本書の特設ページが設けてあります。著者のオリジナル紹介文も掲載されており、本書の注文もできます。




●「尾崎翠作品に新しい光」●

<書評>山崎邦紀
( 「日本海新聞」2002年9月7日掲載 )

 ほとんど忘れ去られていた尾崎翠を「わたしのミューズ」と呼んで、翠復活の機縁を作った花田清輝。彼は戦後日本の怪物的批評家として一時代を画したが、今や読まれることもめっきり減った。おそらく翠の読者の方が多い逆転状況の中で、この日本人離れした二つの精神の出会いが持つ意味を、現代の地点から、ものすごい馬力で論及したのが本書である。

 著者の土井淑平は、昨年から鳥取でスタートした「尾崎翠フォーラム」の代表だが、わたしたち『第七官界彷徨・尾崎翠を探して』(浜野佐知監督)の撮影隊が、どやどや岩美町に乗り込んできたのが九十八年。当時、地元鳥取県でも翠を知る人は多くなかったが、三年後にはフォーラムの開催が多くの耳目を集め、今年の二回目に時機を合わせて本書が出版される。翠再々評価の運動の、大きな結実といえるだろう。(再評価は七十年代以降行われてきたが、今や質量ともに新たな次元に入った)

 しかし、本書で引用される文献の圧倒的な量と多彩さには、唖然とした。これまで書かれたほとんどの翠論や清輝論、中には公刊されていない論文まで踏まえた上で「笑い」をメイン・モチーフとした自説を展開している。いかなる読解がなされてきたか知る上でも有益だが、従来の文芸評論やアカデミズムの論文とはまったく異なる、思想的、哲学的なアプローチだ。翠とフェミニズム批評、清輝と現代思想家、デリダの類縁性など、新鮮な照射によって、今日的な可能性を浮かび上がらせている。

 しかし、だからといって難しいだけの本ではない。何しろ、笑いがテーマですからね。例えば「子供がうんこの話を好むことは世の親なら誰でも知るところだ」と淑平は書く。残念ながらわたしに子供はないが、記憶を遡ると、水木しげるのどっさりうんこの出てくるマンガを愛読したものだ。翠の美しい幻想小説『第七官界彷徨』の世界が、全篇肥やしを煮る匂いに満ちていることは、今さら言うまでもないが、おかげでわたしたちの映画は、一部のお上品な方々のシカメ面を招いた。もっともアメリカの上映では、肥やしが出てくるたびに大きな歓声や笑い声が巻き起こった。おそらく彼らは、子供の心性を残しているに違いない。

 しかし、家の中で肥やしを使って二十日大根や蘚(こけ)を生育している町子たちのボロ家を、動物や植物などの自然なエネルギーが循環している「エコロジカルな小宇宙」と捉えるところに、淑平の独壇場があった。翠とエコロジー! 誰がこれまでこんな非文学的な読解をしたことだろう。

 いや、わたしはエコロジーという思想や運動を誤解していたようだ。誰にも反論しにくい正義の御旗を掲げ、まなじり決した表情を、つい思い浮かべるのだが、淑平によれば、エコロジーと喜劇は深く結びついている。自分が生き延びるためには何でもする「喜劇的生活様式」は、すべての生物に見られ、進化もまた「行き当たりばったりの日和見的な喜劇」なのだそうだ。町子たちの恋愛がことごとく失恋や片恋に終わり、蘚の恋愛だけが盛大に花開くのも、エコロジカルな喜劇だろう。三五郎に言わせれば、彼は「植物の恋の助手」にすぎない。

 町子の名前が小野小町のパロディであり、フロイトの精神分析をもじったのが「分裂心理学」であることは、翠自身が明かしているが、淑平は現代のテクスト理論で解読する。翠が、医学や科学や文学の言葉やスタイルを導入してくる際の、微妙なズレや意味の転換によって、独特の可笑しみ―ゲラゲラ笑うのではないが、凝り固まった思考や感情のモツレをゆるやかに開放してくれる、冴え冴えとしたユーモアが生じる。それをパロディとして読む淑平の論理展開は、まことに鮮やかなものだ。

 思えば「運動」の中から作品を制作することを主張してやまなかったのが、清輝だった。「尾崎翠フォーラム」の運動から、さらに新たな結実があることを願うが、まさにこの書は、翠と清輝をめぐる討論の「広場」であり、そこでわたしたちは、笑うエコロジスト、淑平と出会うのである。

 なお、「定本 尾崎翠全集」を出版した筑摩書房が、十月中旬に文庫版で「尾崎翠集成」全2巻を刊行する。中野翠による編集と解説で、大いに期待したい。



●その後の高橋丈雄●

松江 翠(児童文学者協会会員)

 尾崎翠の“恋人なるもの”高橋丈雄は、その後半生を四国・松山で送っている。翠が失意のうちに故郷・鳥取に帰り、ひっそりと余生を送ったように、戦後松山に居を定めた高橋もまた、中央の文壇を遠く離れ、消息不明と報じられていた。
 昭和51年、脚本家・猪股勝人氏宛の公開書簡に、彼はこう書き出している。「死んではいませんでした。…」と。続いて「…およそ老境などというものとはかけ離れた心境で」「魂は絶えず文学へのパトスで、ひっかき回されています」と、ひたぶるに文学への道を邁進する現況を知らせている。
 松山での高橋は、必ずしも健康や経済的に恵まれはしなかったが、懐の深い人柄もあいまって友人や恋人、彼を慕う多くの子弟に囲まれ、地方には稀有な演劇人、文学者として厚く遇され、死後も評価が高い。
 年譜を繰って彼の足跡を追ってみよう。

1906年 10月31日、東京都麹町区永田町、餅菓子業、高橋金次郎の長男として生れる。本名、武雄。
1915年(9才) 一家あげて大阪へ移転。
1922年(16才) 弟の投げた鉛筆が目に当たり右眼を失明。中学を1年休学。
1925年(19才) 父、母、弟、あいついで死去。
1927年(21才) 上京、早稲田第一高等学院に入学。
1928年(22才) 京都の日活映画会社に入り、阿部豊の下で監督をめざす。
1929年(23才) 上京。『改造』の懸賞に戯曲「死なす」が当選。
1931年(25才) 尾崎士郎、宮本顕治、尾崎翠らとともに『文学党員』を出す。
1932年(26才) この頃、翠と親しくなり、10日あまり同居。
1935年(29才) 愛媛県出身の西原正子と結婚。
1943年(37才) 正子の実家がある愛媛県波方町に疎開。ついで松山に移る。文筆活動に専念。
1945年(39才) 戦災で作品のすべてを焼失。
1946年(40才) 愛媛新聞に連載小説「雛歌」。このころより演劇活動に情熱を燃やす。劇団「かもめ座」主宰。
1953年(47才) 上京。「明治零年」歌舞伎座で上演。文部大臣賞。
1962年(56才) 松山に移り、恋人・妙子と住む。
1969年(63才) 正円寺公民館に移り、文学サロン開講。
1973年(67才) 妙子死去。
1977年(71才) 随筆集「鳥と詩人」刊行。
1980年(74才) 文芸同人誌『アミーゴ』創刊。
1986年(79才) 7月、北条病院にて肺炎のため死去。
葬儀は『アミーゴ』の同人が行い、墓碑も長建寺に建てられた。

 母のイトコに新派草分けの俳優がいたこともあり、高橋は早くから演劇に親しんだ。若き日には映画界に身をおいたこともあり、脚本を習作していたようだ。映画好きな翠と“話が合った”ゆえんだろう。23歳、初めて書いた戯曲「死なす」で彗星のごとく文壇にデビュー、以後、小説や戯曲にペンをふるう。隻眼のため、兵役を逃れることが出来たのは、運命のいたずらというものだろう。
 戦禍をさけ妻の故郷・愛媛に疎開するが、のちにこの結婚は失敗に終わり、妻は幼い娘とともに出奔する。
 戦後、民主主義の台頭、新しい文化復興のエネルギーは、のどかな地方都市・松山にも熱く渦巻いた。かつて中央の演劇・文学界で嘱望された高橋は、水を得た魚のように高校の演劇部や職場の演劇サークルの指導者として、東奔西走の日を送る。NHKや民放のラジオドラマの演出、脚本家として活躍し、かたわら劇団「かもめ座」を主宰する。その頃の仲間に、劇作家・坂本忠士、作家・洲之内徹、シェイクスピア研究家の安西徹雄、評論家・天野祐吉、俳優・露口茂、劇作家・光田稔、岡田禎子らがいる。劇団員ではなかったが、当時高校生だった監督・伊丹十三やノーベル賞作家・大江健三郎も交流があったはずである。
 演劇ブームが去った60年代、高橋は再び松山に戻るが、その後は気さくな人柄や博学多識を買われ、読書会や文章教室の講師、文学サロンの主宰、文芸同人誌『アミーゴ』を創刊するなど、愛媛の文学風土に熱い種子を蒔き続け、後進の育成に力を注いだ。
 文学サロンの熱心な“信徒”であった妙子というよき伴侶を得たが、彼女とも10年余りで死別、終生、家族とは縁遠い人であった。
 昭和61年、彼を敬慕する同人たちに看まもられながら逝去。手厚く葬られ詩碑が建立された。著作も菊池佐紀、高須賀昭夫氏らの尽力により刊行されている。愛媛という温暖な地に安住の場をみつけた高橋は、最終的に幸せな文学者と断じても過言ではあるまい。
 ちなみに松山での高橋は、かつての恋人・尾崎翠については、あえて封印したまま、77年に自身が編んだ年譜にもいっさい触れていない。
 まったくの仮説であるが、高橋がなぜ尾崎と別れたか、その一因に彼の青年期の悲惨な体験があるように思われてならない。彼は16才の時、弟の悪戯がもとで片目を失明している。しかし、このことで弟を恨んだりすることはなく、翌年腸結核のため早世した弟をモデルに名作「死なす」を書き上げた。その年、極度の躁鬱病であった父親が精神病院に入院、まもなく死亡。息子と夫を失った母親は後追い自殺した。高橋には姉二人がいたが、わずかな遺産がもとで姉達とも縁を断つ。最初の妻との結婚に破れた30歳代にも彼は強度のノイローゼにおちいり、なんども自殺を試みている。晩年、末期ガンに犯された彼が医師の麻酔投与にあたって、もっとも怖じたのは「父のように狂気に襲われはしまいか」との危惧だった。
 26歳。父母の忌まわしい記憶がまだ払いきれない繊細な神経の高橋が、頭痛止めのミグレニンを多用していた翠との生活に、過剰の不安を抱いたとしても不思議はない、と推察できるのである。
 若い頃から宗教に造詣の深かった高橋は、晩年ますますその傾向をつよめ、独自の宗教観を確立、終生“生と死”を問い続けた。母方の里が寺であり仏教と縁浅からぬ翠の、晩年の心の安穏と、相い通じるものがあったはず。尾崎ファンとしては、せめてもの共通項を見出したいのである。



●専修大学大学院、畑研究室が『尾崎翠の諸相』発行●

町子の赤いちぢれ毛の行方? 削除された「模倣の偉きい力」とは?
町子は何故「女の子」と呼ばれる?
『こほろぎ嬢』の語り手は、どうして「私たち」という複数なのか?
生新な尾崎翠アプローチの数々に注目

 尾崎翠の作品を読むのは、もちろん楽しい。尾崎翠の作品についてディスカッションするのも、また別の楽しさです。専修大学大学院文学研究科の畑ゼミ(畑有三教授)が、1999年度の演習で研究した成果を『尾崎翠作品の諸相』としてまとめました。
 筑摩書房の『定本 尾崎翠全集』上下巻の発行に刺激されたということですが、これまで発表されてきた数多くの尾崎翠論をベースにして、今日的な視点から、生新な作品論を展開しています。また、1年かけて精査された文献目録も貴重なものです。収録されている論文は8本ですが、例えば、

*『初恋』における男の長襦袢(女装)や妹の男装には、どんな民俗学的な意味があるのか、
*『香りから呼ぶ幻覚』の嗅覚と触覚の描かれ方、
*町子の「赤いちぢれ毛」が、作中でどんな運命をたどり、いかなる影響を町子に与えたか、
*町子がいつも「けむったい思ひ」をさせられている名前が、町子にもたらした「分裂心理」、
*町子は「人間の第七官にひびくやうな詩」に到達できたのか、
*削除された冒頭の一行の「模倣」のモチーフがはらんでいる「偉きい力」とは、
*『こほろぎ嬢』のエロスを回避した恋愛は、他作品にも共有されている、
 

 等々、まさに21世紀を目前にした現在地点からの興味、関心、問題意識によって論じられています。
 どうですか、読みたくなったでしょ? ここではヤマザキが個人的にもっとも啓発された末國善己さんの「異端・図書館・分身-尾崎翠『こほろぎ嬢』試論」を、ピン・ポイントで紹介します。
*幸田当八氏は、なぜ旅から旅を続けながら、研究を重ねなければならなかったのか? それは、氏が研究する「分裂心理学」が、フロイトの精神分析の大きな影響下にあり、この作品が書かれた1932年当時のフロイト説は、帝大を頂点とするアカデミズムの精神医療からすると「異端」の学説だった。怪しげな薬を常用する「こほろぎ嬢」も、二重人格の「ふぃおな・まくろうど」=「ゐりあむ・しゃーぷ」も明らかに異端の人種であり、当時の常識ある人々からすれば、境界の向こう側の奇天烈な世界だったろう。
*「こほろぎ嬢」の経済生活は、いかなる苦境にあったか? ラストで「産婆学の暗記者」に向かって「こんな考へにだって、やはり、パンは要るんです」と声なき呟きを洩らしますが、部屋代や薬代以外に「嬢」は図書館の入館料も支払っていた! 当時は公共図書館も有料制で、1908年開館の日比谷図書館は「特別閲覧料は四銭(回数券の場合十五枚綴りが十八銭)普通閲覧券は二銭(十五枚綴りが十八銭)」で、館外貸出となると、有効期間によって4円(1年)2円(5ヵ月)1円(2ヵ月)という高さです。それから20年も経ってれば「嬢」が払った閲覧料はもっと上がっていたろうし、図書館へ行く往復の電車賃もかかる。末國さんが「こほろぎ嬢」は「悲壮とも思える覚悟で、図書館に通い続ける」と書いているのには吹き出してしまいましたが、経済の逼迫を考えると納得できます。
*「嬢」は図書館の先客を、どうして「産婆学の暗記者」と信じ込んだのか? 1927年発行の『職業婦人調査(看護婦・産婆)』(中央職業紹介事務局)によれば、産婆の月収は2百円~5百円で、事務員やタイピストでは自分一人の生活費にも足りないのが普通だが「産婆にあってはその収入でよく一家の生計を立ててゐるものである」とか。当時の女性が自立するための数少ない職業が産婆であり(そういえば、ヤマザキの祖母が横浜で産婆していたらしい)「産婆学の暗記者」である「未亡人」は、一人で生きていく道を探っていたのではないか。その意味では、自分の世界を守ろうとする「こほろぎ嬢」とも、どこか似通った境遇にあり「産婆学の受験者」は「パンの世界を生きるもう一人の」「こほろぎ嬢」ではないか、と末國さんは指摘します。つまり「ふぃおな・まくろうど/ゐりあむ・しゃーぷ」の分身性が「こほろぎ嬢/産婆学の暗記者」にも通有しているというわけで、これにはわたしも思わず膝を叩きました。
 なかで森澤夕子さんの論文「尾崎翠の両性具有への憧れ-ウィリアム・シャープからの影響を中心に-」が引用されていますが「こほろぎ嬢」と対極的な存在として「子供を産むのを助けるための産婆学を勉強している未亡人」という、森澤さんの見方にもわたしは心惹かれるものがあり、批評もまた大いに「分裂」することで豊かになっていくことでしょう。
 それにしても、産婆さんの月収や、図書館の閲覧料といった形而下のデータを駆使しながら、大胆な推理を展開する末國探偵の鮮やかな手並みには、すっかり感服しました。

●『尾崎翠作品の諸相』目次
「尾崎翠文学の位相」畑有三
「尾崎翠『初恋』に関する一考察」上山和宏
「『香りから呼ぶ幻覚』一「感覚」と深層心理について」チョン スウォン
「尾崎翠『第七官界彷徨』論一小野町子と「赤いちぢれ毛」について
  “女くらゐ頭髪に未練をかけるものはないね。”」押山美知子
「尾崎翠『第七官界彷徨』論一《名前》からのアプローチ」南雄太
「尾崎翠『第七官界彷徨』一<詩的>散文という位置」遠藤郁子
「名前を求めて「彷徨」する「女の子」一『第七官界彷徨』試論」横井司
「閉ざされた世界一『こほろぎ嬢』を中心に」高橋由香
「異端・図書館・分身一尾崎翠『こほろぎ嬢』試論」末國善己

「尾崎翠書誌」横井司・編
「尾崎翠参考文献目録」末國善己・編
「尾崎翠映像・舞台化作品目録」末國善己・編

■お問い合わせ先■
〒214-8580 川崎市多摩区三田 2-1-1 専修大学大学院 文学研究科 畑研究室
(購入を希望する場合は、頒価1千円+送料)

★なお、本HPに今回から掲載する「尾崎翠参考文献目録」は、畑研究室が調査したデータの提供を受け、塚本靖代さん(東京大学大学院・総合文化研究科博士課程)が、HP用に再編集してくれたものです。畑 有三先生、畑研究室の皆様、末國善己さん、塚本靖代さん、鳥取県立図書館郷土資料室に心からお礼申し上げます。
(2000.9.23)




●雑誌『鳩よ!』4月号の歯切れの悪い訂正記事について●

山崎邦紀

 1999年の『鳩よ!』11月号(マガジンハウス)が「リニュウーアル創刊」して「尾崎翠 モダン少女の宇宙と幻想」を特集したのは、尾崎翠ファンとしてはこの上ない醍醐味でした。ちょうどその頃公刊された『少女領域』(高原英理著。国書刊行会)と併せて、尾崎翠批評の清新な風が、研究の世界だけでなく、一般の読書界にも吹き始めたように感じたものです。(高原さんは『鳩よ!』にも執筆)。
 もちろん、稲垣真美氏を批判するヤマザキとしては、冒頭に「未発表作品収録!」と派手に謳われた「エルゼ嬢」の「解説」、最後にこれまで書いた評伝の同工異曲である「尾崎翠とともに生きて」というエッセイと、まるで特集をサンドイッチするかのように、氏が書いているのは(個人的には)不快なことでした。しかし、新資料もあるので仕方のないことなんだろうと、氏の文章については読み流して、無視を決め込んでいたのです。
 ところが、今年の『鳩よ!』4月号をみてビックリ。裏表紙(いわゆる表3)に対向するページの裏側という、まことに目立たないところに「尾崎翠その後ー『わたしのピーターパン』をめぐってー」という、稲垣氏の短文が載っているではありませんか。これによれば、前記「尾崎翠とともに生きて」で大胆な推測を展開した「わたしのピーターパン」の作者・岡愛子=尾崎翠説が、根も葉もない妄説であったことが判明した。作者の岡愛子さんは健在で、1996年には改訂版も出されている(アムリタ書房刊)というのです。
 また、その後に、小さく「編集部より」というお断わりがあり「エルゼ嬢」は「尾崎翠の創作ではなく、アルトゥール・シュニッツラー『フロイライン・エルゼ』の冒頭部分の翻訳であったことがわかりました」と訂正。こちらも『夢がたり』(ハヤカワ文庫)に収録され、現在も販売中なのだそうです。
 稲垣氏の釈明に『私のピーターパン』について指摘したのが、読者の塚本靖代さんという「研究も進めておられる方」と記されているので、塚本さん(東京大学大学院博士課程)に電話して経過をお尋ねしました。それによるとヤマザキのように稲垣氏に遺恨のない塚本さんは、間違った説が流布することを懸念して『鳩よ!』編集部に連絡を取ったのだそうです。この訂正記事が、目次にも出ていないことから、果たしてどれぐらいの読者が気付いてくれたか、塚本さんは心配していました。
 しかし、稲垣氏と編集部が、それぞれ分担して訂正記事を書いているのは、いかなる意図、あるいは配慮によるものでしょう。前記「エルゼ嬢」の「解説」において新発見を喧伝し、「後の傑作『途上にて』や『歩行』に結晶するモチーフが、すでに現われているのも興味深い」とまで稲垣氏は書いているのですから、あたかも編集部のミスであるかのような体裁を取るのはおかしなことです。
 しかし、こうした事態が起きるのは、予想できないことではありませんでした。例えば、創樹社版の全集(1979年)と、筑摩書房の2巻本の定本全集(1999年)の「解題・校異」(後者は「解題」のみ)を比較すると、20年前の方がはるかに詳しいのです。特に「第七官界彷徨」と「歩行」については「校異」において、初出の『文学党員』『新興芸術研究』や『家庭』との異同を丹念に示しています。
 創樹社の玉井五一編集長によれば、最初の全集は思想史家の藤田省三氏とともに、岩波書店の校閲に在籍していた田中禎孝氏が尽力されたそうです(校異、解題を担当)。しかし、その後、尾崎翠を稲垣氏が独り占めしてしまったので、そうした実証的な調査、チェックがおろそかになったのでしょう。(創樹社版の「年譜」に、稲垣氏とともにクレジットされていた女性研究者の名前が、筑摩版では外されているのも、恣意的な感を免れません)
 こんなことをあげつらっていると、相当執念深い性格のように誤解される可能性がありますが(誤解じゃない?)しかし、今回改めて昨年の「尾崎翠とともに生きて」という文章を読んで、ふつふつと怒りが込み上げてきました。鳥取の精神病院で「ナチスのドイツから導入された電撃ショック療法」を尾崎翠が受けたように書いていますが(まるで見てきたかのように描写するのが、氏の得意手です)これはしかし、当時そうした治療が行なわれたという状況証拠以外に、なにか具体的な確証があるのでしょうか。
 筑摩の「定本全集」でも、この療法に触れていますが、今回の方がはるかに描写がドギツクなっています。また、上巻の月報で、例の高橋丈雄に翠の兄が送った駒下駄について、山田稔氏に当然の疑問を呈されると(妹を託するなんて意味が、高橋に伝わるわけがない)下巻でさっそく、その下駄は鳥取から土産に持参したのだと、新説を打ち出しています。しかし、それでは、創樹社版の月報に高橋本人が書いた回想と矛盾してしまうのですが、まるで意に介さないところが、いかにも稲垣氏らしい。
 ひとつのエピソードが、書くたびに尾ヒレが付いて、物語り化していく稲垣氏に特有の手法については、岩波新書の『ワインの常識』(稲垣真美著、1996年)の「デタラメ」と利益誘導(氏は酒の評論家だけでなく、輸入業者でもあった)を根底的に批判した『「ワインの常識」と非常識』(山本博著、人間の科学社刊、1997年)に詳しい。
 しかし、まあ、今さら稲垣氏批判でもないのですが、今回の「エルゼ嬢」問題に見られるように、原資料を氏が私物化している現状は、今後の尾崎翠研究にとって、まことに不透明なことであると考えるのですが、如何でしょうか。このHPは「討論コーナー」を設けていますので、ヤマザキの稲垣氏論難が不当であると思われる方も含めて、ご意見をメイルでお送りください。


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『第七官界彷徨 尾崎翠を探して』上映委員会
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