編集後記    

●短い、短い、編集後記●

 ファックスから、高尾事務所の鈴木裕子さんから送られてくる校正が、洪水のように溢れ出してくる。「尾崎翠参考文献目録」だ。大量のデータを見ながら、わたしは麻薬のような快感を覚える。データに対するフェティッシュな愛ではない。「畑研究室の1年にわたる精査」→「末國善己さんの『諸相』のための編集」→「塚本靖代さんによるHPのための再編集」→「鈴木裕子さんのデザイン」、というプロセスに、わたしの脳内物質を刺激するものがあるようだ。わたしは、経過をただ注視するのみで、介在する余地はまったくないのだが、データが移動するなかで次々に姿を変え、しかも当事者が対面することなく、インターネット経由で進んでいくところに、たまらない、こういって良ければ、エクスタシーのようなものを感じる。このプロセスは、しかし、相当優れたコンビネーション・プレイと呼ぶべきではないか。感謝あるのみ。

 INDEX に「松山での高橋丈雄の晩年について」という予告を入れた。これは2月の松山市女性センター「コムズ」での上映会の際に、高橋丈雄について発言された方があり、最近「コムズ」の村山さんのお骨折りで、その方、松江翠さんとコンタクトがとれたことによる。尾崎翠と同名の松江さんは、高橋丈雄が所有していた創樹社版の尾崎翠全集を、お弟子さん筋から借り受けて読んだことがあるとか。わたしはなぜか零落した晩年を、漠然と予想していたのだが、松江さん情報によれば、高橋丈雄は、最初に結婚した女性の出身地である松山に、相当の足跡を残していた。パリの日仏女性研究シンポジウムの資料作りをしている伊吹弘子さん(日仏女性研究学会)に尋ねられ、わたしには答えらなかった高橋丈雄の没年は、松江さんに問い合わせて1986年と判明。いかなる人であったか知りたいと思い、このHPで松江さんに、松山における高橋丈雄の晩年について書いて頂くことになった。

 北海道立文学館の平原一良さんによると、松下文子の故郷、旭川でも、彼女を含めて、昭和初期の郷土の女性作家に関する掘り起こしが進められているとか。しかし、圧倒的に資料が少なく、困難を極めているらしい。そこで思い起されるのが、筑摩の定本全集の編集過程で、松下文子の遺族から稲垣氏に渡された「朱塗りの文箱」だ。氏は「彼女が翠に書かせたこれらの未発表作品だけを、自分の詩作品等とは峻別して、朱塗りの文箱に大切に収納し秘蔵した」と下巻の解説に書いているが、これまた氏お得意の見てきたようなお話で、『鳩よ!』の「エルゼ嬢」の一件に現われたごとく、氏の鑑定眼は、はなはだ怪しい。「エルゼ嬢」の署名は「松下文子」であり、また『鳩よ!』の生原稿の写真版を見て、生前の尾崎翠を知る人の「これは翠の字ではない」という声もあった。稲垣氏は、筆名に「松下文子」を用いた理由を、いくつも推測によって並べ立てているが、どれも根拠の薄いものだ。自分でも詩を発表していた松下文子が、シュニッツラーの「フロイライン・エルゼ」の翻訳を、途中まで試みた草稿と考えた方が、よほど自然ではないか。もちろん、これも現物を見ないままの憶測であり、稲垣氏は現在私蔵している、尾崎翠の生原稿などの一次資料を、然るべき研究機関に委ねるべきだ。

 短い、短い編集後記のはずが、思わず長くなってしまった。それにしても「1本の映画×1台のパソコン」が、数年前なら一生出会うことはなかったろう、ヒト、モノ、コトを、不意に結びつけていくスペクタクルには、ふと振り返って茫然とならざるを得ない。ここにも新しい快感の感触がある…ということで、なぜかカイカンに始まり、カイカンで終わった編集後記だった。
(2000・9・27)
 



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『第七官界彷徨 尾崎翠を探して』上映委員会
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