故郷の海や風や空気について

●翠の聖地巡礼、岩美町●

 
 翠の生地であり、『無風帯から』や『花束』など初期作品の舞台でもある岩美町。1998年には、映画の撮影隊が1ヵ月にわたって合宿し、長期ロケを行いました。尾崎翠が鳥取に戻ってからの伝記パートは、ほとんど岩美町の中で撮影されています。景勝で知られる浦富海岸には、美しい海水浴場がいくつもありますが、そこから内陸部に入ったところに、翠生誕の地である岩井温泉があります。99年の暮れには「ゆかむりギャラリー/尾崎翠資料館」ができ、資料の整備が進められています。また、翠の父、長太郎が勤務した旧岩井小学校も改修が行なわれるなど、尾崎翠「聖地巡礼」の受け入れ態勢が整いつつあります。(2000・9・26)

TEL.0857-73-1416 岩美町役場・企画観光課
 
《ゆかむりギャラリー/尾崎翠資料館》(岩井温泉)
 花屋旅館の別館に、99年12月20日の尾崎翠の誕生日にオープンしました。親族が提供した珍しい写真(タクシーに乗ろうとしている50代?ぐらいの尾崎翠)もあり、今後地域に密着した資料整備が期待されます。なお、ここでもらえるパンフレットは、翠の生まれた岩井温泉や、代用教員時代に過ごし、初期のエッセイの舞台となった網代港近辺と、尾崎翠との関わりをコンパクトにまとめたスグレもの。訪ねたら、ぜひもらって帰りましょう。

TEL.0857-72-1525(岩井屋内、岩井温泉旅館組合)
 
 
 
《西法寺》(岩井温泉)
 母方の実家にあたる、このお寺で翠は生まれました。1896年(明治29年)12月20日のことです。母まさは、西法寺住職山名澄道の三女。映画の中で、西法寺の前を翠(白石加代子)と、親友松下文子(吉行和子)が歩くシーンがありますが、気付かれたでしょうか。庭を掃くエキストラ出演は、ご住職の奥さんです。余談ながら、本堂の屋根の先端に突き出た彫刻には、心惹かれるものがあります。
 
 
《旧岩井小学校》(岩井温泉)
 父長太郎が主席教員をしていた小学校です。翠が4歳の時に、今では鳥取市内の面影小学校(当時、面影村)に転勤となり、一家は岩井温泉から引っ越しました。「四つか五つの頃まで、私は、生まれ故郷の山の中の小さい温泉場に育ちましたが、それから町に出て、私が小学校へ通った頃には、もう私には、町に住むようになった今の自分より、山の中の温泉場にいた幼い私の方が幸福だったと思う心が生まれていました」(『花束』より)。小学校として使われなくなった後、長く紙製品の工場が操業していましたが、最近になって引っ越し、文化財として改修が始まっています。小学校の前に立つ翠と文子の美しいシーンが、映画にはありましたね。
 
 
《網代の僧堂跡》(網代港)
 翠は18歳の時に鳥取高女を卒業し、生れ故郷の岩美町に戻って代用教員になりました。その時に寄宿していたのが、網代港にあった西法寺の僧堂です。今では建て替えられて「西法寺布教所」になっていますが、漁港の町の、家が密集した間を縫うようにして歩く迷路のような道は、かつてのおもかげを残しているようです。布教所には祖父、山名澄道の碑も立っています。
 
 
《蒲生川から網代港を望む》(網代港)
 代用教員時代の翠は、網代港から蒲生川をさかのぼったところにある大岩尋常小学校(現在は統合されて、跡地だけ残っている)に通いました。言うまでもなく『花束』の舞台です。土地の人に「かんこ」がどんな舟か尋ねたら、誰もが知ってました。『花束』のなかで、翠は「周囲や自然のせいか-私はその頃ことに海が好きでしたから-あの頃が一番私の詩人らしい時代だった気がします」と書いています。この地で雑誌への投稿を重ねて実力をつけ、ついには文芸誌『新潮』に寄稿を求められるまでになりました。作家になる決意を固め、21歳の時に大岩尋常小学校を辞めて、最初の上京をしています。
 
 
《川上課長と浜野監督》
「岩美のことはカワカミに訊け」。岩美町役場の企画観光課・川上寿朗課長は、新名物「ばばちゃん」料理を普及させたり、夏のシュノーケルクラブを推進したり、岩美の海と山を愛する名物課長です。どこか人を喰ったところのあるキャラクターに、最初は戸惑うかも知れませんが、映画撮影の時には、立場こそ違え、苦労と困難を共にした同志でもあります。写真は、鳥取市内の養源寺の尾崎翠のお墓の前で、浜野監督と。
 


●翠の眠る鳥取市●

 
 翠が長い年月を過ごした鳥取市には、お墓のある養源寺や、面影小学校の詩碑など、ゆかりの場所も少なくありません。しかし、1943年の大地震や1952年の大火の影響で、市内の町並みは一新したようです。翠が息を引き取った生協病院も、鳥取駅近くの同じ場所にありますが、建て替えられています。湖山池そばの老人ホーム「敬生寮」も引っ越し、かつての場所には公共施設が立っています。しかし、鳥取空港を降り立つたびに、また千代川や袋川の土手を散策するたびに、鳥取の風や空気には、不思議な清新の気が漂う、尾崎翠が呼吸した空気と、同じ空気を今吸っているのだと実感しないわけにはいきません。マニアの心情かと自分でも疑い、岩美町の渚交流館でお会いした鳥取大学の教授にお尋ねしたところ、海と山の位置関係など地理的な条件によって、鳥取の空気は他所といささか成分を異にするらしいです。(2000・9・26)
 
《養源寺》(職人町)
 翠のお墓がある養源寺は、次兄の哲郎が竜谷大学を出て養子となったお寺です。最近親族の手によって、翠のお墓の案内板ができましたが、それまでは親戚の別のお墓と間違えられることが多かったとか。場所は鳥取駅から県庁方向に向かう若狭街道を進み、若狭橋を越えて、アンチックな丸福珈琲店の角を右に入って200メートルぐらい。門の脇に石柱が立っているので、分かりやすいです。お墓は本堂を回り込んで、一番奥。
 


 
 
《鳥取市歴史博物館/やまびこ館》(上町)
 樗谿(おおちだに)神社のそばに、7月にオープンしたばかりの市立博物館です。10月半ばに尾崎翠の展示を行ない、その後、常設コーナーにするそうです。「参加体験型ミュージアム」を謳っていますが、なるほど新型の博物館はこんな発想、工夫をするのかと、感心することしきり。玄関前で微笑むのは、尾崎翠研究に力を注ぐ佐々木考文学芸員です。

TEL.0857-23-2140
(月曜休館、入館料大人500円)
 
 
《面影小学校の詩碑》(雲山)
 父長太郎が、岩井小学校から面影小学校に転勤になり、一家は岩井温泉から、当時の面影村に引っ越してきました。2年後には、この小学校の校長先生となります。道路の29号線を雲山方向に向かい、新袋川の面影橋を渡るとまもなく、左側に山ふところに抱かれた面影小学校が現われます。ここには、
「おもかげをわすれかねつつ/こころかなしきときは/ひとりあゆみて/おもひを野に捨てよ/明治41年度卒業生/作家 尾崎翠」
という、大きな岩に刻まれた詩碑が立っています。ファンとしては感慨胸に迫るものがありますが、ここの小学校の生徒はみんな、こんな寂しい詩を、幼い心に沈めて巣立っていったのか、大丈夫か…などと妙な心配をするのも、尾崎翠の愛読者ならでは?
 
 
 
《大杙の住居跡》(大杙)
 「おおくい」と読みます。駅方向から来ると、面影小学校の手前、29号線の「大杙入口」の交差点を左に入り、500メートルぐらい進んだ左側の畑に「作家尾崎翠住居跡」と記した杙(?)が建っています。ここにも「おもかげをわすれかねつつ~」の詩が書かれ「面影郷土史研究会」とありますので、おそらく小学校の詩碑もこの研究会が建てたのでしょう。共同通信の土井淑平記者の卓抜な尾崎翠論「美神の仮面-尾崎翠頌」(1980年)によれば、一家が引っ越してきた「裏庭に柿の林のある古家」(稲垣氏の創樹社版解説)の持ち主である「その旧家というのがひい祖父さんの代のわたしの家らしく、わが家で古くから“下の屋敷”と呼んで現在は野菜畑になっているその土地には、いまでも、ひょろひょろと、背高く年老いた柿の木が何本か残っていて秋になると実を結ぶ」とか。かつての「柿の林」が、土井さんの代には「ひょろひょろと」した「何本か」に変貌したことになります。二階の窓から、柿の木の柿をもぎ取って、むしゃむしゃ食べるエピソードが『歩行』に出てきますが、住居跡には現在も、たしか3本ほどの大きな柿の木が枝を広げていました。
 
 
 
《鳥取砂丘》
 言わずと知れた鳥取のシンボルです。映画ロケの時のヘリコプター空撮を思い出すと、不覚にも涙がこぼれるのは、わたしだけではないでしょう。宇宙に向かって書かれた(?)砂の落書を、ほうきで消して回ったり、善意の観光客を人払いして、一時的に立ち入り禁止にしたり、スタッフもボランティアも、暑くて広大で歩きにくいなかを、よく働きました。もちろん女優さんたちも-。それだけに、夕陽をバックに海の彼方からヘリコプターが飛んできた時には、胸に迫るものがありました。映画の空撮シーンも心地よいスケール感を出していますが、ほぼ無人となった砂丘の頂上の、豆粒のような女優さんたちを撮影すべく、ヘリコプターが轟音をあげて夕焼けの空を飛び回る光景は、息を飲むほど美しいもので、この瞬間にわたしはこの映画の成功を確信しました。メイキング・ビデオを撮っておけば良かった!
 
 


●研究から発信へ倉吉市●

 
 倉吉は「白壁土蔵群」で知られるように、旧い町並みが残っている、懐かしいたたずまいの街です。ここに住む画家の渡辺法子さんは、尾崎翠の作品を色彩から読み解くというユニークな試みを続けている人で『尾崎翠文学の色彩を読む』という自費出版もあります。映画の中に登場する、若き日の尾崎翠の東京の部屋や、深尾須磨子と対談する洋室は、渡辺さんの紹介で、由緒ある小川酒造さんをロケセットにお借りすることができました。なんと明治時代にできた建物で「県民の建物百選」にも選ばれています。
 渡辺さんが中心になって、2000年6月末には、廃業して取り壊されそうな酒蔵の内部を改造し「アートハウス夢扉」をオープンしました。渡辺さんはここに「尾崎翠研究室」を作って、毎月1回セミナーを開催するなどの活動をしていくそうです。(2000・9・26)
 
《白壁土蔵群》(打吹公園通り)
 倉吉は家の脇を流れる清流が印象的な街ですが、この川沿いに江戸や明治に建てられた土蔵が並んでいます。ただ保存されているだけでなく、喫茶店を兼ねたショップや、郷土玩具の店などが入っていて格好の散歩コース。「アートハウス夢扉」も、この土蔵群と同じ川沿いにあります。
 
 
《「夢扉」の前に立つ渡辺法子さん》
 中には、渡辺さんの作品が、見上げるほどの大作も含めて展示されています。7月8日には、オープン記念のセミナーが、浜野監督を迎えて開かれました。「尾崎翠映画その後『日本の翠から世界の翠へ』」というテーマです。熱心な尾崎翠ファンが集まり、中には九州の福岡からやってきた永野光雄さんのような人もいました。永野さんは、福岡の映画サークルの関係者です(渡辺さんの後ろ、建物の裏に写っているのが永野さんですが、分かりますか?)
 
 
《セミナーで話す浜野監督》
 この日は、浜野監督の話以外に、小林圭子さんによる『第七官界彷徨』の朗読も行なわれました。尾崎翠研究室では、セミナー以外にもイベントや資料整理を行っていくそうです。草木染工房や布アート工房、絵画展示や教室などのスペースや企画が「夢扉」にはあり、風通しのよい、文化発信の基地となりそうです。
 
 
《翠の親族の松本敏行さん(中央)と早川洋子さん(右)》
 鳥取在住の親族である早川洋子さん(姪)と松本敏行さん(甥)も、7月8日のセミナーにはいらっしゃいました。お二人とも尾崎翠の数少ない遺品を保存したり、正確な伝記的事実を調査したり、また養源寺の案内板を掲示するなど、親族の立場から力を尽くされています。
 
 
《渡辺さんの作品展示》
 こちら側が絵画の展示になっています。荒々しく夢幻的なタッチは、尾崎翠に通ずるものがあるのでしょうか。相当古い建物を利用しているので、壁と柱の間に隙間があり、雨が吹き込んでくるとか。絵画の裏面はビニールで覆っているそうですが、建て物の中央部に素敵に大きな鉄の釜などがあるのも、元酒蔵のおかげです。
 

●倉吉市に常設の尾崎翠研究室オープン●

 
 鳥取県中央部の歴史ある街、倉吉市は、映画の撮影で、若き日の尾崎翠や松下文子、林芙美子などが交流するシーンをロケしたところですが、ここに尾崎翠研究室がオープンします。これは尾崎翠における「色彩論」を研究し、発表してきた洋画家の渡辺法子さんが、新しく開設される「アートハウス夢扉」の一角に「尾崎翠研究室」を設けたものです。
 「夢扉」のオープンは今年の6月29日で、メインは草木染めの工房や絵画教室などのようですが、尾崎翠のコーナーを常設にして、持続的に研究して行きたいと渡辺さんは意欲を燃やしています。7月8日(土)には、浜野監督をゲストに「尾崎翠セミナー&トーク」が開かれ、これにはヤマザキも参加します。帰り次第、このHPで報告しますので、お楽しみに。

【「夢扉」の連絡先 】TEL.0858-23-0387 渡辺法子


MIDORI  TOP

『第七官界彷徨 尾崎翠を探して』上映委員会
sense-7@f3.dion.ne.jp