(注1) |
稲垣真美『尾崎翠全集』解説(創樹社 昭和五十四年)
加藤幸子「尾崎翠の感覚世界」(『群像』 平成二年一月号)」 |
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(注2) |
戸塚隆子「尾崎翠の作品解釈──『第七官界彷徨』『歩行』『地下室アントンの一夜』を中心に──」(日本大学文理学部『研究年報』第三十集 昭和五十七年) |
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(注3) |
例外的に、詩稿の地上部の末尾「しかし僕はもうよほど疲れたから、その続きを考へることを止さう。考へ続けてゐると、だんだん、女の子が失恋から治つてゐない気がして来て、おれは悲しくもなるんだ。」と、「地下室アントン」想定の直前部「地下水──暗「ところを黙つて流れてゐる水だといふ。何となくおれの恋愛境地に似てゐて、おれは悲しくなる。」の二箇所に「おれ」という一人称が現れる。「九作詩稿」が「地下室アントン」の想定で途切れていることを考えると、一人称の不統一を作品の完成度の低さと見るよりは、より私的な一人称で「悲しく(も)なる」という感情を示して、それぞれ「地上」について述べている部分から「地下」について述べる部分への境界、「地下室アントン」想定の直前部という、「地下室」へ向かうための「僕」の感情のたかまりを示す場面の設定として「おれ」という一人称が用いられたと考える。 |
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(注4) |
尾崎翠の表現として、「おたまじやくし」を音譜の比喩として用いるのは、昭和六年発表の「第七官界彷徨」に既にある。 |
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五線のうへにならんでるおたまじやくしは何日くらゐで読めるやうになるものだい。二週間あればたくさんだらう。二つめの鉢が恋愛をはじめるまでに一週間ある予定だから、そのあひだに僕はおたまじやくしの研究をしよう
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うんと大声で音楽をうたつてもいいよ。僕は昨夜で第二鉢の論文も済んだし、当分暢気だからね。今晩から僕はうちの女の子におたまじやくしの講義を聴くことにしよう |
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また古谷鏡子「日常の中の非日常空間・物の位置──尾崎翠『第七官界彷徨』」(『新日本文学』昭和五十七年二月)に「地下室アントンの一夜」にあらわれる「おたまじやくし」を音譜と連想する指摘がある。 |
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(注5) |
「猪は豚の進化したものであるといふ進化説」の部分は、初出でも同様である。「猪」と「豚」の原稿段階での書き間違いか誤植であると思われる。 |
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(注6) |
「恋をしたから接吻が出来ないと書いてゐる。」という部分は「九作詩稿」には無い。他に「余」が読んでいる部分は「九作詩稿」と内容を一致するので、この部分は作品に引用されている以外の「九作詩稿」の部分と見るよりは、自分を否定されて激昂している「余」が「九作詩稿」の記述を大袈裟に述べていると考えるほうが妥当かと思われる。 |
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(注7) |
「地下室アントンの一夜」とほぼ同時期に翠が発表した「こほろぎ嬢」(『火の鳥』昭和七年七月号)にも「私たち」という語り手が登場する。この「私たち」という語り手に関して、近藤裕子「匂いとしての〈わたし〉──尾崎翠の述語的世界」(『日本近代文学』平成九年十月)に次のような指摘がある。
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「私たち」という語り手は、「たち」という複数性をあらわす接尾語を抱えてはいるが、囲い込んでいる複数の「私」の間に混乱や葛藤は見られない。ゆるやかなまとまりのうちにひとつの物語を紡ぎあげてゆく語りの主体(「私たち」)は、単一の中心をもった複数の主体というより、複数の中心をもったひとつの主体というほうがふさわしい。 |
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